「私は私が嫌い」という人へ。映画『聲の形』を観て、そして原作マンガを読んでほしい

映画『聲の形』を観てきました。

原作マンガをまったく読んだことない友人と、そして原作マンガの大ファンである自分のふたりで観にいった。映画を観ているあいだ自分は、泣いた。ウルっときて目頭が熱くなるような感じではなく、目を開いたまま涙がほほをつたわり、あごから膝にしたたり落ちる。それが2時間のうちに3回も。

映画を最後まで観たあとにすぐ思ったことは「この映画をおもしろいと感じた人には原作マンガを読んでほしい!」この一言に尽きますね。

今回の記事は、映画『聲の形』の感想をふまえた原作マンガの紹介です。そして「私は私が嫌い」という自己評価の低い人には苦しくても原作マンガを読んでほしいと願って、書きます。

 

聲の形(こえのかたち) 全7巻完結/ 大今良時

『聲の形』は、耳の聞こえない少女・西宮硝子に、彼女をいじめていた主人公・石田将也が高校生になって会いに行くことから始まる。将也は退屈なことが嫌いなわんぱく小僧で、まるで宇宙人のように変な奴だと感じた耳の聞こえない硝子をいじめて、転校させた過去を持つ。硝子のいじめ発覚と同時に今度は将也がいじめられるという、因果応報ともいえるような暗転した人生を送ることで、彼はいじめたことを後悔し、自分から孤立を選ぶようになって、そして自分の事が嫌いになった。

どーせ死ぬんだと自分の未来を悲観した結果、死ぬまえにやり残したことを片付けようと身辺整理して、硝子に会いに行く。そんなあらすじだ。

原作マンガが連載当時、コミック派な自分が毎週マガジンを買って何度も読み返すほど熱中していた。つまり原作の大ファンで、物語の展開や伏線など細かいところがわかるほど読み込んでいたし、読むたびに泣いていた。だから、映画では達観して楽しめないだろうと思っていたのだ。なのに、泣いた。

映画は原作マンガにわりと忠実に制作されていたと思う。もちろん2時間の尺にするために削っているエピソードはたくさんある。しかしこの映画の素晴らしいのが「映されなかった描写」なのだ。将也や硝子とその妹・結絃の三人や家族、そして友人の永束、植野、佐原、川井、真柴たちのあいだで軋轢がそれぞれ生じる。原作を知らない人はシーンの隙間に「これはなにかあっただろう」と感じさせられるだろうし、原作ファンはその隙間に物語のさらに深いところが頭の中を駆け巡る。そして感情移入してしまうので、間違いなく監督の技量は素晴らしい。もちろんアニメーション映画ならではの仕掛けで「聴こえ」をどのキャラが感じているかが使い分けられているところも凄いが、なんといっても、観おわった後に原作マンガを読みたくなるように意識して制作しているであろうことは間違いない。

しかし、この映画の現実(原作マンガ)は残酷なのだ。

いじめと障害を表題的なテーマとして扱っているがゆえに、原作マンガの読み切りも連載中も賛否両論な意見がかなりあったはずだ。人によっては不愉快な思いをするかもしれないし、いじめや障害で深刻なトラウマを抱えている人が原作マンガを読むと、その生々しい現実の残酷さが苦しい記憶をよみがえらせて過去に引きずられるかもしれない。

原作マンガには劇薬のようで副作用の強い薬みたいな作用がある。それに比べて映画はまだまだ全然甘い。だからこそ、映画に「映されている言葉のトゲ」がグサグサ刺さって耐えられなかったという人には原作マンガを読むことはおすすめしない。きっと、今のあなたには読むまでに時間が必要だと思われる。自分や対人関係の悩みに向き合う覚悟や想いみたいなものが持てていないのかもしれない。

 

ここからは、原作マンガの現実も含めて紹介する。

まず、映画の尺の問題もあってあまり映されなかったが、友人の永束、植野、佐原、川井、真柴たち(植野にかんしてはまだリアルに描かれていた気がする)は、正直いい友達といえるほど健全な高校生とはいえなかった。永束は見栄っ張りのかまってちゃんだし、植野は硝子に対する当たりやいじめが一番ひどく、佐原は苦しくなったらすぐ逃げる。川井は優等生な振りして自己愛が強すぎで、真柴は歪んだ正義感の持ち主だった。なにより親や先生たち、大人は西宮家の祖母を除くだれひとりとして人格者とはいえない。そして、いじめや障害や子供の友人関係をよき方向へと導くことなどまったくできなかったのだ。

つまり、子どもたちの障害やいじめや友達関係を変えていくのに大人はなにもできなかったという親としては過酷な現実と、子どもたちの対人関係をよき方向へ変えるには本人たちが向き合うしかないという、逃げては修復するはずのない人間関係の本質が突きつけられる、と自分は感じている。

このマンガのほとんどのキャラは、きっとみんな「私は私が嫌い」と思っていた自己評価の低いひとたちばかりだ。

幼いころはわんぱくで退屈が嫌いで度胸試しを積極的にしていたのに、孤立して硝子に会いに行ったあとも将也は自分の事を殺したいと思っていた。

昔の自分を殺したいと後悔する将也
「聲の形 3巻」 大今良時 P176

硝子は映画でもはっきり映っていたように「私は私のことが嫌いです」といい、そして傍若無人にみえる植野もそんな硝子にシンパシーを感じている。

観覧車で語り合う植野と硝子
「聲の形 4巻」 大今良時 P84 (講談社コミックス)

もう、こんな描写をみると苦しくてつらい。自分もけっこう自己評価が低い人間で、槍がグサグサ刺されて串刺しのようになってしまうと読み返すたびに感じる。そしてこのまま自己評価が低いままで、「自分といると不幸になる」とまで思うようになってしまうと、取り返しのつかないぐらい苦しくて悲しくて、そして幸せな記憶もあればあるほどさらに後悔することが起きる場合がある。(ここは重要なシーンなので映画や原作マンガを…みて)

こんな思いや経験を実際にすると、人は数分のうちに二度泣かずにはいられない。こんな硝子のように。

泣いたあとに将也を思い出して泣く硝子

ノートの記憶がよみがえる
「聲の形 6巻」 大今良時 P174-175

ここは個人的に映画でも細かく映してほしかったシーン。

硝子は夢から覚めたあとに橋の上で不安になって泣き、そして泣き止んだあとにもう一度、つらかったあのときや救われたじかんを思い出して記憶が巡り巡って、涙がこぼれて崩れ落ちる。このように泣き崩れてしまうほどの後悔がある人は、絶対に突き刺さるはずだ。「私は私が嫌い」だと自己評価が低い人は、たとえ向き合うのが苦しかったとしても読んでほしい。もう二度とこんな思いをしないためにも。

 

この原作マンガは、たしかに劇薬だ。なにより、自分の過去や嫌な感情と向き合うのは苦しい。そして人と向き合うのも簡単なことではなく、ときとして自分も相手も傷つけることになるかもしれない。それでも、将也と硝子が手話で伝えあったように、「俺とお前友達に…なれるか?」から始まり、そして「生きるのを手伝ってほしい」とはいえなくても「もっとみんなと一緒にいたい それを手伝ってほしい 君に」と大切な人に伝えてみてはどうだろうか。
あなたなりの聲の形(こえのかたち)で…

最後に、このマンガの最終話で将也が心の中で思った言葉を紹介する。

この扉の向こうにあるのは きっとつらい過去だ
でももう一つある 可能性だ
それはいつだって開くことができる 生きている限り

 

あとがき。

「私は私が嫌い」という自己評価の低い人は、実はたくさんいるんじゃないかと思う。自分だけのことのように感じるかもしれないが、植野が言っているようにありふれたことなのです。

自分もまだまだそのうちのひとりで、過去に縛られていることがいくつもある。でも、この原作マンガに出会っていて本当によかった。以前よりはまだ少し、自分や周りの人を愛せるようになっていると思っている。

今回映画をいっしょに観にいった原作マンガを知らない友達は、この映画をすごく気に入ったみたいで嬉しかった。自分からは作品についてあまり語るまいと思っていたけど、ハイテンションな友達についつい乗せられて怒涛の原作マンガ語りをしてしまった…ああ、ファンの悪いクセだと思いながらも、彼がマンガを読み終わったあとにどんな感想を話してくれるのか楽しみです。

ちなみに連載当時『なぞ解き・聲の形』というファンブログがありまして、原作マンガの深い描写と伏線などのなぞを解いて考察しているような内容で、マガジン読んでコミック読み返してこのブログを読んで、みたいにめちゃくちゃハマっていた懐かしい思い出があります。ブログの内容がKindleで電子書籍化もされていますので、内容を深く理解したいと思っている方はよければいっしょに読んでみてはどうでしょうか。

 

全7巻で完結!

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