大切な人が死んでいなくなることは、悲しくて寂しくて心が千切れそうになる。
だけど本当に怖いのは、大切な人の記憶がぼやけて忘れてしまうことではないでしょうか。
かといって、人の記憶や気持ちを言語化していても逆にその姿が曖昧になってしまうこともある。失った人との思い出や記憶は、写真や日記に記録していたものを読み振り返るほど美化されていくもの。
頭ではわかっていたとしても、知らない間に自分の思いどおりの記憶を作り上げずにはいられない。そしていなくなった人との思い出や記憶という名の”ゆめまぼろし”に縛られてしまう。
そんなひとに読んでほしいマンガが『彼女はもう死んでいるのに!』です。
彼女はもう死んでいるのに!/ 時計
人間とアンドロイドが共存している世界で、ヘルプロイドに居場所を奪われ親に捨てられた子供の朱(あか)。そこで変わり者が住むアパートの管理人として暮らすことになる。
アパートには病気がちの姉・霞(かすみ)とヘルプロイドの医者である弟・千秋(ちあき)の二人だけで住んでいた。
二人の姉弟がすべての部屋を本や研究道具で埋め尽くし、ヘルプロイド患者の治療と研究で異臭も放つ変なアパート。霞の優しさとあたたかさで徐々に家族のように心開いてゆく朱だけれど、霞が死んだ。
こうなることを分かっていた千秋は、霞の記憶・体温・仕草・同じ気持ちを持つアンドロイドとして生まれ変わらせようと作り続ける。そのために準備もしてきた。そう、アパートの膨大な資料は霞一人の人間の記憶なのです。
こうしてアンドロイドとして生まれ変わった、さくらばかすみ。
照れたときの頬の赤み、首を傾げる角度、映画を見たらこのタイミングで泣き、千秋の仕事がうまくいった日は鼻歌を歌い、朱の話にはこのタイミングで相槌を打つ。この人は完璧に霞姉さんだけど、朱は気付いてしまった。
桜庭千秋から見た桜庭霞として完璧なんだ、と。
人はただ一人しか存在しえないのに、同じ人が相手によって違う見方をされてしまう他者の視点の違いがこのマンガには描かれている。朱と千秋それぞれの記憶を通して見た霞は別の姿であり、一人しかいない同じ人なのです。
たとえ霞本人が記した記憶の全てを読み込み数値が寸分変わらなくても、霞自身の気持ち全てが記されているわけではないでしょう。また人はだれでも相手によって接し方が変わり、だれかと秘密を共有して約束し、それぞれの相手に別の記憶として残る。
そこには言葉に表せない気持ちがあり、人と人は心で関わることを改めて感じさせてくれる。
ストックホルム症候群めいた関係の姉弟で人間として鈍い千秋だけど、彼の大切な人を失う怖さと胸にあいた穴の深さにどうしようもなく、苦しくて寂しくて心が千切れてしまいそうになる。あまりネタバレしすぎるとあれなので、千秋の心の機微を私のひと言で表すと
記憶という名の”ゆめまぼろし”で、聞いた言葉は願望という”まやかし”。
大切な人との本当の記憶を忘れてきていると自覚したときが、きっといちばん苦しい。でも死んだ人はいなくなったことに変わりないのだから、胸にあいた穴が大切な人を想っていた証だと思ってさよならをするための一歩を踏み出そう。
なお描き下ろしの「星の月、夜の太陽」は続編で、その後の朱を見守るターニャが霞と対極的に二人の時を刻んでくれる。
記憶は美化されていくので、死んでいる人間に生きている人間はどうしても勝てない。
でもその逆に、生きている人間は「これから」があるので死んでいる人間は勝てない。
このマンガを描き下ろしまで全て読むと、いなくなった大切な人の不思議な気配をなつかしみ、時を刻んで前に進むことができるようになれる気がする。
造花の霞草を知らずにプレゼントするターニャのおかげで、さよならを言う朱と人の気持ちをを察しようとする千秋がいるのだから。
マンガ家・時計先生の言葉
このマンガの著者である時計先生から読者に向けてのコメントを頂きました!
@hyper_lexia 死んでしまった人とどう生きていくか、という話を描きました。日々感じること、記憶、それを言葉にする事。明確にして良いことと悪いことのバランスって凄く難しいと思います。そういう『曖昧なもの』を楽しんで頂けると嬉しいです。どうぞ宜しくお願いします!
— 時計■AV女優本六刷&3/11単行本発売 (@tictac_clock_) 2017年3月30日
描き下ろしの「星の月、夜の太陽」で登場するターニャは、明るくはっきりしてて、でも人との距離感への気遣いもできる素敵な女性。彼女のようにゆっくりと見守りながら想う人がそばにいてくれると、これからの支えになってくれるでしょう。
『AV女優とAV男優が同居する話。』も素敵な短編集のマンガ。表題作はもちろんのこと、「兄が好きな妹と妹が怖い兄の話。」の歪んだ兄妹愛をたいせつなかぞくの愛でとどめを刺す優しさに涙があふれてしまいます。時計先生の次の作品がとても楽しみです。
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